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栄和堂ブログ

鎌倉の端っこにあった書店「栄和堂」僕らはここを「ブックスペース」として本屋の再発明をしていきます。公式HP http://eiwado.space/

読むだけが本ではない

今日はぼく(親父)の67回目の誕生日である。特段の感慨はないが、もうそんな歳かとふと思う。昭和23年生まれだから団塊のど真ん中なのである。そんなオッサンが栄和堂の書棚に本を並べてみた。並べるにあたって納戸や押し入れにしまってあったものを引っ張りだした。もう45年も前に買った本も出てきた。ホコリを払い、茶色く変色してしまったのを紙やすりで擦って並べた。

この何十年ぶりに再会する本を手にしばし時を忘れたのは言うまでもない。結局棚には1000冊くらいが収まった。4回引っ越ししたわりにはまあよく残っていたなあと思う。ただ、キネマ旬報をはじめとした雑誌を処分してしまったのは今になったら残念だった。また、ぜんぜん読んでない本もそれこそたくさんあった。

しかしながら、自分でも驚いたのは読んでいない本も買った時のことを覚えていたことであった。どんなシチュエーションでどんな心境でというのを全部とはいかないまでもおおかたの本について思い出せるのである。とりわけ映画の本が多い。結婚する前は年間100本観ていたことや、一日8本観たこと(昔はオールナイトというのがあった)、日活の映画館でちょうど舞台挨拶に来ていたロマンポルノの女優さんと楽屋で股火鉢をしながら談笑したことなどを思い出した。

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そんな時代は本屋に行っては映画関係の本があるとすぐに買ったのだった。そして、会社の仲間と一緒に映画サークルを立ち上げて、自主上映会や映画製作、同人誌の発行などをやった。つい先日、その仲間だった先輩からまた同人誌を作るからお前も参加しないかという手紙が来た。わー、おそるべし70歳。

書棚にどう並べるかも悩ましくもあり楽しかった。やはり、全集などを除くとジャンルや著者で固めることにするのだが、こだわりのある本が並ぶのをながめながらまたひそかにほくそ笑むのである。なぜチベットの本があるのか、なぜ永井明、山崎方代、植松二郎、植草甚一の本があるのか、誰かに語りたくなりますよね。

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そして、逆にこんな本を読んでいたときぼくは何をしていたのだろうと思いを馳せる。吉本隆明で政治の季節を知り、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいた時は仕事に燃えていたなあとか、山崎豊子の「大地の子」を読みながら、中国で働いた日々を思い出していたとか、挫折しそうになったとき藤沢周平に助けられたとか、様々な過去に本が寄り添っていた。その反対に本が読めなかった時もあった。本を読む気にもならないほど追い詰められたこともあったのだ。

こうしてみると、本は読んでその中身がどうだったかという面だけではなく、本を鏡にして過去の自分を投影したり、昔の写真を見るように本に込められた物語を思い浮かべるといった作用もあって、むしろそっちのほうが紙の本の文字通り“本質”ではないでしょうか。だから、読んでいない本でも「私の本」なのである。そして、本を触媒として化学反応も起こるというものである。

ついちょっと前の朝日新聞の読書欄で、津野海太郎さんがこんなことを言っていた。

昔読んだ本を読み返すといろいろなことがわかる。違うところに自分が来ているという発見や、長く生きてないと味わえない重層感がある。

一方でぼくは、今考えると若い時はなぜあんなだったのだろうという発見もあるように思う。自分の本ではなく誰かよその人の本かもしれませんが、そういう思いをぜひ栄和堂で味わってほしいのである。また、重層感を得るためにも若い人に言いたいのは今この時こそ紙の本にふれてほしいのである。